困るよ>家族のパニック [日記・雑記]
なんの調子かというと、パニック障害というやつ。
彼女がこれに悩まされて数年が経つ。
知ってる人は知っているこの病気、というか病態?
敵は我の中にあり、という感じで、クスリだけの治療ではなかなか治らない。
やっかいなのが、もう知ってる人が誰も読んでないここにしかぶちまけられないんだけど、
彼女のムードが私に伝染するということ。。
新幹線も満員電車も飛行機も一人で過ごす夜も、私は怖くもなんともなかった。
なのに、彼女の怖がりようをみて、その恐怖を想像するうちにだんだん「わかる」ようになってきてしまった。
新幹線を「思う」だけで震えが来るほど。
possesed、という英単語があるんだけど、まさにこれ。とりつかれて、支配されている。
自分の発想というか、実在しない恐怖の影に怯えるというかんじ。
こうやって書いてみるといかにバカバカしいかわかるんだけど、
自分ではどうしようもないのだ。
友達に旅行に誘われると、まず不安がのしかかる。旅路で”最初の”パニック発作を起こしたら?
そう、厳密にはまだパニックそのものを知らないのに、想像だけで恐ろしいのですよ。
バカみたい・・・・orz
妹はときどき、制御不能の発作に陥るらしく、出勤しようとする私を泣いて引き止めることがある。
29歳の妹が。泣いて姉に縋る。
そんな姿を見て、困ったなあと思わない人がいるだろうか。
パニック障害やうつは、家族に伝播することが多いらしい。特に女性の家族間では要注意。
理屈ぬきに体が反応すると言いつつも、理屈先行なんですね、この手の障害。
”もしも”が支配する。
これさえなければあたしの人生ハッピーなのに!と願う。
めんどくせえ。
妹もろとも、パニックに関する記憶をバーナーかなにかで焼き切ってしまいたい。
そんな今日この頃。
朋ちゃん。 [日記・雑記]
20くらいの頃つきあっていた彼氏が、華原朋美の大ファンであった。彼女がまさに絶頂期にあり、歌番組に白馬で登場したり屋上でライブ中継したりとやりたい放題の売れっ子ぶりを見せていた頃である。
いまでいうエビちゃん的に、彼女は女子の目指すモテアイコンでもあった。
あのボケっぷりやおバカさのすべてが追い風となり、常識ある大人からは頭の痛くなるような発言でも、世間的には「カワイイ」として認識されて、もうなんでもアリだったのである。
私の彼氏は彼女の大ファンであったから、私は常に朋ちゃんぽくあることを求められた。
バカだと思われるくらいなら死んだほうがましと思っているインテリ学生である頃だからして、その要求はやすやすと受け入れられるものではなかった。
しかし恋の力とは恐ろしい。
私は、自然に華原朋美的ファッションを実践し、しゃべり方さえまねて見せた。一度胸を開いてしまうと、あとは意外と違和感なく取り入れられるものである。
私は、一般的に見たらちょっとイタイ「擬似朋ちゃん」となって、渋谷や原宿をデートしたのである。
しかして、私にとって朋ちゃんは憎さこそあれ好きにはなれなかった。
彼が夢中なのは、私ではなく朋ちゃんであって、私がいくら調整を行ったところで朋ちゃんではないのである。
異様に露出の多い頃のことだから、テレビでも雑誌でも朋ちゃんを見ない日はなかった。
視界には、憎きライバルが微笑む姿がいつでも入ってくる。
なんなのよ、あのバカ娘、歌だって、あれは上手いのか!?
口から出るのは朋ちゃん批判。ただし、彼の前では決して言わない。
朋ちゃんを否定することは資本主義を否定するくらいに重要な発言だったのである。
時は流れ、私はその彼と別れた。ほんの半年ほどの交際であった。
擬似華原でいることから解放された私は、もとの落ち着いた生活を取り戻し、ワンピースをたたんでクロゼットに仕舞った。ストレートの髪は前からうっとうしかったのでボブに切った。
名実ともに、私に戻ったのである。
その頃、朋ちゃんは相変わらず第一線を走っていた。
小室哲也との交際は終わったとか終わらないとか、そういう話はあったが、見た感じ元気に芸能活動をしていた。
私にとって彼女は、一時をともに過ごした同士のような存在になっていて、彼女を見るとなんとなく「あ、がんばっているな」と思ったものである。
まったく一方的な話だけども、もう他人だとは思えなかった。
彼氏と離れてみれば、彼女を嫌う理由もなかった。単純に可愛い人だと思った。
ちょっと危なっかしいところもあるけども、基本として明るくて性格のいい子に見えた。
その頃出始めていたKEIKOの絶望的な品のなさからすると、格段に華のあるタレントだったと思う。
本格的に小室との関係がよくなくなり、真偽のほどはわからないが一方的に捨てられたような形で別れたという報道のあと、彼女は一気に崩れてしまった。
一時を極めた時代のアイドルは、祭り上げた張本人たちからこれでもかと貶められ、いろいろなことを書かれ続けた。かわいそうだった。
あのとき、私の彼氏が朋ちゃんを好きだったのは、単純そうで可愛いからだった。たぶん、彼女は果てしなくそのとおりなんだと思う。
器用にウソをついたり、商品としての自分の一部を切り離して考えたり、そういうタイプではないのだ。
そういう脆そうなところがつまり、守りたい衝動を起こさせるんだろう。
タレントなんかじゃなくて、ただのモテる女の子で、幸せな家庭の人になれればそれでよかったんじゃないのかなあなどと、よけいなことを考える。
いまの朋ちゃんの報道、本当に見るに忍びない。できればじかに、元気づけてあげたい。
同年代の同性として、不安の種類には似ているものがあるかもしれない。
睡眠薬や安定剤を服用しているこのくらいの年の女の子がいかに多いか、みんな知らないわけじゃないだろうに。
酔っ払って行方不明になり、明け方、なぜか一次会の店で発見された女友達。(なぜか靴を履いていなかった)
「これから死ぬ」と言って睡眠薬を大量服用した女友達。 (記憶をたどって救急車を誘導するはめになった)
深夜の有楽町でパニックを起こし「動けない」と電話をしてきた女友達。(タクシーで迎えにいった)
普通の会社員でも、それくらいの事件はよくある。本当にありふれてる。
特にこの年代、病んでる子の多いことと言ったら、「正常な」子を見つけるほうが難しい。賭けてもいい。
朋ちゃんだけの「奇行」なんかじゃないので、放っておいてくれないかな、ほんとにそう思う。
ファンとして、同世代を生きている女として、朋ちゃんを応援しています。がんばれ、朋ちゃん。
芝居がかった人 [日記・雑記]
他者目線を過剰に意識する人の中に、いつでも「芝居がかった人」がいるのをたまに見かける。
オタクと呼ばれる人たちが擬態語を口から出しながら動作を行う※のと同じ要領だが、オタクと違って「芝居がかった人」は音声に頼らない。
※「ギク~ッ」と言いながら振り向く、「ささっ」と言いながらメガネをかけなおす、など
「芝居がかった人」は、あくまで演技で勝負だ。
会社で、駅のホームで、コーヒーショップで、彼らの舞台は多岐に渡る。
お昼に立ち寄った「ドトール」。そこにも、とある「芝居がかった人」がいた。
彼女は30代後半のOLさんと思しき微妙な年代の女性で、不細工ではないが美人ではない中途半端な容貌。
かわいそうなのは服装のセンスが80年代で止まったままなことだ。
チャンピオンベルト風巨大バックルがついた極太エナメルベルトでワンピーススーツを引き締めて、
いまどきどこで買うのか、馬のひづめのような末広がりのヒール。
そんなに気合充分な服装なのに髪がボッサボサなのはなにかに対するアンチ・テーゼ?
見れば見るほど不思議な女性であった。
彼女は、一挙手一投足、すべてに芝居がかっていた。
コーヒーを飲むときは目をつむり、まずは鼻元までカップを持ち上げて香りを堪能。
フゥ~とご満悦なため息を散らした後、おもむろに口を近づける。
当然のようにおちょぼ口。
小指は天に向かってそそり立ち、カップを持たない手は肘をついて、軽く握った拳が外側を向いている。
「まいっちんぐ」ポーズである。
一口コーヒーをすすっては「んぅ~」と首を軽く振る。
おそらく「おいしい」の身体的表現なのだろう。
ここはドトールで、彼女は一人で、全身を駆使しての「おいしい」アピール。
まったくもって行き先のわからない過剰演技なのである。
つづいてサンドイッチ。
230円のサンドを両手でつかみ、やはり小指は立てたまま。
サンドは固定で、顎が迎えに行く態勢。
おちょぼ口で一口齧ると、「うん、うん、」と咀嚼するごとに声を出しながら頷いている。
なぜか片手が口元に添えられて、もぐもぐと動く彼女の唇を隠す。
ここまで見届けてしまうと、この薄ら寒い「芝居がかった人」の世界にスッポリ引きこまれて凍えそうになる。
誰に向けてんだ!?おまえ何者なんだ一体?
このときはただの芝居がかった人だったが、私は先日、この「ドトールの芝居がかった人」を別の現場で目撃する。
朝の新宿駅のホーム、彼女はあの日と同じようなエイティーズ・ルックに身を包み、やはり櫛の通っていない鳥の巣ヘアで進行方向をずんずんと歩いている。
おっと思って近づいていく私。
そこへ、山手線外回りが滑り込んできた。
わらわらとドアに群がる無数の人々、誰もが「これに乗ろう」と意気込みも露わにわが身を押し込む。
その中で彼女は飛びぬけてアグレッシブであった。
憤怒、というのは怒っている人の掛け声から取った言葉ではないかと思うほど激しい鼻息(フンヌーッ!!)を噴出しながら、人ごみに突進していく彼女。
吊りあがった目の際は赤く充血し、歯は食いしばって仁王像のようだ。
もう絶対に乗れないって、あきらめてよおばさん、という悲痛な目を向ける先客たちを尻で押し込み、白くむちむちとした二の腕がドア枠をがっしりとつかんで突っ張っている。
その表情には、彼女の底から湧き上がる「乗ってやるわ」という「念」以外になにも映っていない。
こわいっつーの。
誰でも多少、「こう見られたい自分」を演じることがある。
目指すイメージがあるのはいいことだと思う。
しかしながら、それが行き過ぎて「素の自分」から派手に乖離してしまうと、その差を見せられた周囲はあわてると思う。
あくまでホントの自分をベースに、少しばかりの背伸びをする。それも20代のうちに確定しておきたいものだ。
30過ぎての「自分探し」は「自分迷宮」に入ってるのと一緒で、他人から見ても落ち着かない。
このドトールおばさん、その後もやっぱりドトールやエクセルシオールで見かけることがあるのだが、オーバーアクションは健在。
短い小指をおったてて、一人、優雅なランチタイムを満喫してらっしゃる。
彼女にランチメイトがいない理由が、なんとなくわかってしまう今日この頃。
涙の行方 [日記・雑記]
外資企業にとって、春は重役の入れ替わりの時期。
やっとお互いの緊張が解け、共同で積極的にプロジェクトを進めていけるまでになったところで
任期満了になるので、毎度肩透かしというか、「またか・・・」という感は、どうしても拭えない。
新しい重役が着任したら、また一からやり直しなわけだ。
恋人同士でも、誰かと別れて新たに誰かと付き合うとき、
前の恋人と同じくらいの仲良しになるまでの期間がちょっとめんどうなことがあるが、まさにあの感覚である。
あのなれあったカンジが落ち着いていいのに、また最初から関係を作らなくちゃいけない。
見た目と性格のギャップ、金銭感覚、経験、判断力、出会ってから探ることは山ほどある。
恋愛の場合はそれも楽しさと言えばまあそうとも言えるが、仕事も場合はただの足踏み期間。
そんなのはないに越したことはない。
また、これも恋人同士の場合と同様で、うまくいってきたところで「転勤」とか
やむをえない事情で引き離されると、寂しさもひとしおだ。
先日、また一人の重役が日本を去ることになり、送別会が開催された。
転職してけっこう経つが、相変わらず声をかけていただけるのはありがたいことで、ノコノコと参加させていただいた。
今回帰国する主役はCFO。
管理部門と関わりが深いポジションにいたため、比較的女性スタッフと交流が多かった。
ジェントルでちょっとおちゃめで、りっぱなおじさんなのだけど日本人のオッサンにはない
「かわいらしさ」のある、なかなかの人気者であった。
シビアなもので、微妙に人徳のないスタッフが去るとき、しっかりとドライな空気の送別会になる。
幸い、このCFOはとても周囲に好かれていたので、多くの女性の涙という最高の餞を得ることができた。
美しい女性たちが別れの涙を流している姿というのは、これはいい。
自分は件のCFOとは仕事上直接の接触がなかったため、実はそれほどの悲しみはなくて、
ただただ美人OLたちのうるわしき涙をビール片手に鑑賞。
送別会で綺麗な女の子に泣いてもらうというのは、男性としてはうれしいんだろうな。
私にとってもなかなか実りある送別会だった。
そして一夜明け、私は驚くべき事実を知ることになる。
別件で連絡したとある男性社員から、彼女達の涙のその行く末を聞かされたのである。
色白で細身、モデル「りょう」似のクールな経理アシスタント・マネージャーが
「泣きすぎてコンタクトが入らなかった」と言って眼鏡をかけて出社。
初めて見る彼女の眼鏡姿、そのレンズの奥には数字の「3」によく似た形状の、目とおぼしき物体が、、、。
しかも、悪いことに眼鏡が黒ぶちで、その顔は彼にある人物を思わせたのだそうだ。
「ドランクドラゴンの鈴木」
あまりの変貌ぶりにうまいフォローが思いつかず、「メガネなんですね」と言うのが精一杯だったとのこと。
エビちゃんをやや大人っぽくしたような可憐なかわいい系美女、社長秘書のAちゃんは、貞子もビックリのクマを作って出社。
丹念に塗りこまれたコンシーラーも、「全力を尽くしましたが・・・・・。お気の毒です」な、実に無念な状態だった。
2次会、3次会まで別れを惜しんだ結果らしい。
平日の涙にはリスクがある。
個人的事情なら、なんとか言い訳を考えて出社を調整することもできようが、会社ぐるみの送別会ではそれは使えない。
明日という日を控えた涙には自制が必要なのだ。
毎日朝の番組を担当している女性アナウンサーがインタビューで言っていたことが忘れられない。
「人間、どうしても泣けてしまう日が必ずある。
朝の顔のアナウンサーだからと言って涙を堪えられない出来事も、絶対にある。
そんなときの泣き方にはコツがある。
決して涙を拭ってはいけない。流れるまま、流すだけ流せばいい。
そうすれば、瞼に水分が残らず、しばらくすると元の自分に戻るから」
大変なベテランアナウンサーで、報道番組もプロデュースもしてらっしゃる方だった。
泣き顔どころか、笑い顔ですら容易に想像できないストイックな彼女が、
堪えきれない涙を流す夜がある。
その発言の色っぽさと言ったら凄まじいではないか。
しかも、涙を拭わずにいられるという場面ということはすなわち、
プライベートな空間で一人で泣いているということだ。
誰だ、Aさん泣かせた奴!!
送別会の現場で涙を拭わずにいたらただの汚いOLなので真似はできないが、
一人悲しみに震える夜、次の日には「公の自分」に戻らなくてはいけない日、
頬といわず胸といわず、涙で濡らしてみるのもいいかもしれない。
年とともになぜか涙もろくなり、同時に仕事での責任が重くなりつつある妙齢の女性にとって、
このテクニックは欠かせない処世術の一つになるだろう。
拭えない涙に濡れるキャリアウーマンらの孤独で脆い夜が、
今日もどこかにあるのである。
ビリーズブートキャンプ [日記・雑記]
大流行中ですな。
友人でやってない人のほうが少ない。
そんで、自分でもやってみると、これがテンションが上がって楽しい。
アメリカン・ハイテンション。
ビリーの次に来ると予想しているのが「カルメン・エレクトラのセクシー・ボディ・レッスン」です。
およそ運動用とは思えないピチピチタイトスカート着用で、くねくねと腰を動かしまくる。
見てるだけで勃起しそうな動きです。
オフィスで意中の人を誘惑する要領で椅子に跨ったり、
上目遣いでメガネを甘噛みしたりとつっこみどころ満載。
どれもこれも日本女子にはまねできませんが、いろんな意味で勉強になります。
ところで、ビリーはタレントさんの間でも大変話題になっている様子。
知人のプロデューサーさんは、ジャニーズアイドル君が本番前に熱心にやっているので
つられてスタジオで踊っているそうです。
動物バラエティ番組のスタジオで「WOW!Yeah!We are in BOOT CAMP!!」
テンション上がります。
ラブ・ゾンビ [日記・雑記]
若いころからそうかもなとは思ってたが、最近になってよりはっきりと、自分の「ゾンビ好き」を自覚した。
TSUTAYAでゾンビものの新作DVDが出ていると迷わず借りる私を見て、友人が「ホントに好きだね」と言ったからだ。人に言われて気づく自分の嗜好にちょっと驚きつつ、なるほど言われてみれば大好きだなと改めて思った。
それまでは、ジャンルとしては「ホラー好き」だと思っていたのだが、むしろ対象はもっと狭くて「ゾンビ限定」と言ってもいいくらいだ。
古くは「バタリアン」「死霊のはらわた」から「28日後」「ドーン・オブ・ザ・デッド」、メジャーなところで「バイオハザード」。昨日観たのは「デッド・フライト」だ。
一番ピンとくるのは「ゾンビ、しかもウィルス感染系」で、「28日後」「バイオハザード」が好き。しかし、ゾンビ古典としての「バタリアン」は絶対にはずせない名作である。笑いが止まらない「死霊のはらわた」もいい。どれもこれも、それぞれのゾンビ解釈があってとても趣深いのである。
怖いから絶対にゾンビ映画を観ない、という方がいるならば、ぜひ「視点を変える」という試みをしていただきたい。ゾンビ映画製作者がなにを目的にそれを撮っているかというと、怖がらせるためではない。圧倒的に、笑わせるためなのだ。怖いと思うなら、それは「怖いもの」だと思っている先入観のしわざである。
一度死んでるわりに全速力で疾走したりとか、
食う以外の興味がまったくなくて頭悪いところとか、
数が多いだけで個々は超弱なところとか、
憎めないポイントばかり。
「アナコンダ」とか「エイリアン」のように、とんでもない破壊力や攻撃力を持っているかといえばそれもない。ただ、パタパタ走って「あ~」と言っているだけ。あえて言うなら「感染しちゃう」のが怖いが、意外とあっさりゾンビ化できるので苦しみは少なそうだ。
重ねて言うが、ゾンビ映画制作者は「笑わせる」ためにさまざまなしかけを画面にしこんでいる。ゾンビの中にしょうもない行動をするキャラがいたり、モブゾンビたちの中に明らかにボーっとしているゾンビがいたり、ディズニーランドでミッキーを探す感覚で楽しめる。
お金のかかっていないB級映画になると、全体的な「安っぽさ」がさらにおかしさを増幅させる。「国家レベルの問題」「ペンタゴンが」「大統領が」と深刻そうに話し合っているわりにセットがビジネスホテルみたいだったりして「そりゃないだろ」というカンジ。これはゾンビ映画に限らずホラー映画全般に当てはまることだが、低予算なりの見方ができて楽しいものだ。
ゾンビ映画のメッカ、米国では日本とは比べ物にならない本数のゾンビ映画が上映されているようだ。日本に上陸してくるのは、そのうちのごく一部である。ゾンビ好きを自覚した今となっては、「モアゾンビ!」と配給を望む気持ちで一杯だ。
そんな中、日本のゾンビ好き待望の新作がこのGWに公開。
目覚めるといきなり荒廃化した街。原因不明のウィルスによって人々がゾンビ化した街で政府の助けを求めて生存者がサバイバルする傑作ゾンビ映画「28日後」の続編「28 weeks later」だ。「トレインスポッティング」でその名を馳せたダニー・ボイル監督で話題を集めた1作目から、今回は別の監督で撮られているよう。
「28日後」はそれなりの予算とスタッフで制作されているので、いろんな意味でとても完成度が高い。笑いもあるにはあるが、ストーリー的にもさまざまな含みがあってとてもよくできている。2作目にも大きな期待がかかるというもものだ。
「28日後」で話題をさらったのは、「ものすごく走るゾンビ」であった。大勢で群れて走る走る、「バタリアン」時代のおっとりした動きのゾンビはもういない。いまは「すばやいゾンビ」の時代なのだ。いわば、ゾンビ映画の新世紀を築いた映画だといえよう。動きが早いから映画のテンポも自然とアップ。ダイナミック・ゾンビ・アクションである。
「28 weeks later」でも、やはりゾンビたちは走りまくっているようで、非常に楽しみ。早く観たい!!
http://www.foxinternational.com/28weekslater/
※ホラーダメな方は見ない方がいいです※
一人でも多くの方にゾンビ映画の喜びを知ってもらえたらな、とささやかな願いを胸に秘めて。
ああ、ラブゾンビ。
やぶへびクイーン [日記・雑記]
どこにでもおせっかいなおばさんというのがいて、ときたまありがたいが大概うっとうしく、対処に困るものである。私の職場にも、やはりやることなすこと余計な『やぶへびクイーン』がいて、日々周りをあわてさせている。
本人的には「良かれと思って」なのだが、周囲からすると「空気読めよ!」以外の何者でもないクイーンの言動。
たとえば、明らかに成人病を気にしている風の、ふくよかな体型のお客様に「ヘルシア緑茶」をお出しする。信じられないことだが、彼女はやった。親切心で。
取引先で初対面の女性に「あなた・・・デブだからこれを飲みたいでしょう?」と暗に示されるくらい度肝を抜く接客もなかろう。
同席していた上司がごくおだやかに「流行っていますよね、こちら。」と巧みな助け舟を出したというのに、極上の笑顔で「ピッタリですよね」と極めつけの一言。お客がテーブルごとヘルシアをひっくり返さなかったのが不思議なくらいだ。
やぶへびクイーンは、このようにやってることがしょっちゅう間違っているのだが、100%親切心でやっているのであって悪気がない。したがって、それを否定されると「わざわざ手を差し伸べているのになぜ?」と心外に思うらしい。そこらへんを刺激しないよう、細心の注意をもって乱れた空気を自然に正常化させることがわれわれ同僚の使命なのである。
ランチ中、目の前の男性が食べているものを喉に詰まらせた。といっても、よくある「むせている」状態で、まあしばらく放っておけば落ち着くのは自明なのだが、そこにクイーンがいたものだからことはただで済まなかった。
スックと立ち上がり、自分の持っていたコップの水を手に彼に駆け寄る。「どうしました?お水のむ?」と背中をさする彼女。言っておくが、この男性は知らない人である。まさかの「他人レスキュー」に、むせていた本人もあせる。ゴホンゴホンと激しくむせながらも、「えっ?誰?」という表情が見て取れた。
ここで問題なのは、一緒にランチをしていた私たちが、彼女だけをレスキューにやってランチを続行していると「感じが悪い同僚の図」になるということだ。仲が悪いわけではないので、一応、応援をする姿勢を見せなくてはならない。
結果として、ちょっとランチを気管につまらせただけの男性は、同じ店に居合わせた見知らぬ女性4人に「大丈夫ですか?」と囲まれ、その様子に他の客が気づいて異様な注目を集めてしまったのである。たまらなくなったのか、彼は席を立って化粧室へかけこんでしまった。
息を落ち着かせて席に戻った男性は、形式上「ご心配をおかけしました」とわれわれに一礼していったが、ランチの残りには手を出さずにそのまま店を出て行った。たぶん、彼はもう二度とあの店には現れないであろう。
ランチ客を一人減らされた店の損害のことなど考えもしない彼女は、偶然出会った男性の一命を取り留めた達成感に頬を紅潮させ、「よかったね」と心底満足そうであった。
とにかく、「具合の悪そうな人は救助せねば」が彼女のモットーらしく、うっかり「体調が悪い」などともらそうものなら、徹底的に症状を尋ねられて頼んでもいない薬を飲まされてしまうこともある。カジュアルに体調の話題を出したつもりが、寝不足から癌まで幅広く心配されてしまうので本当に注意が必要なのだ。
ときには人に知られたくない体調不良もある。生理痛や痔の痛み、水虫のかゆみなどがそうだ。男女の別に関わらず、「はずかしい病気」は極力自分だけの事情にとどめておきたい。
しかしそんな乙女心には一切理解を示さないのがクイーン流。あくまでオープン路線なのだ。
ひそかに「足のにおい」に悩んでいたHちゃんがスニーカーを履いてきたのを見たクイーン、「たまに脱いで換気してもいいよ!」とかなり潔いアドバイスを放った。その一言で、Hちゃんのはずかしい事情が部署内に知れ渡ってしまったのである。
「私たちは平気よ」と菩薩のような広い心を見せたつもりなのであろうが、ここで本来なすべきことは「素知らぬふり」であったことを彼女はまるで気づかない。
そういう選択肢が発想として思いつかないものと推測され、今後も絶対に期待できない展開であることから、彼女に対しては恥ずかしい病状を必死で隠さなくてはならない。毎日10時間近く一緒に仕事をしていることから、これはなかなかに骨の折れることである。
クイーンはしかし、根はとてもいい人なのだ。自らの利益を顧みず、困った人あらばすばやく駆けつけてそのとき自分にできるすべてを実行する。面倒に巻き込まれないよう、極力厄介ごとを避ける人も多い世の中で、立派な志の持ち主である。
だから、彼女の好意を無にしてはいけない。それはみな、心の底から了解しているのだ。
ときどき、素朴に思う。こんなに奉仕心にあふれた人なら、看護師さんとかが適職だったのではないかと。音楽制作に好意を発揮する場面はほとんどないので、非常にもったいない。やぶへびではなく、真のクイーンになれた可能性だってあったのではないかと思うのだ。
仕事で生かせないおせっかいパワーが、ランチとか休憩中にほとばしってしまっている気がして仕方がない今日この頃である。
通勤ジョジョの勧め [日記・雑記]
最近は、便利なものでレンタルコミックを自宅まで届けてくれるお店がある。
まんが喫茶ではなく自宅でビールでも飲みながら読み耽けりたいタイプの私にはうってつけのサービスだ。
1年ほど前からヘビーユーザーになっている。
最新のコミックというよりも、「なつかしのあのまんがを一気読み」に適したこのサービス。「北斗の拳」や「ベルサイユのばら」、「女帝」など娯楽性あふれる名作を自宅でじっくり読むというこの幸せに勝るものは、たくさんあることはあるが、格別の楽しみの一つだといって差し支えないと思う。
ところが、この60冊もの「おたのしみ」が、非常に厳しいノルマとなってのしかかることが、時にある。単純に忙しくて読み進める暇がないときだ。
目下一気読み中「ジョジョの奇妙な冒険」、うっかり放置してしまったばっかりにあと3日で40冊以上読まなくてはならない事態になってしまっていた。
これが、10巻ほどで完結するものであればなんとか間に合うのだが、こと「ジョジョ」に関してはそうはいかない。60冊すべてが続きものの長編まんがなのだ。ここまでの長編をレンタルしたのは今回が初めてだったので、うかつにもペース配分をまちがえてしまった。
帰宅してから寝るまでの数時間を駆使しても追いつくとは思えない。仕方がないので新聞をあきらめて朝夕通勤時間を「ジョジョ」に充てることにしたのだが、朝から「ジョジョ」とはこれはなかなかに危険である。
とてもとても有名なまんがなのでご存知の方も多いと思うが、「ジョジョ」はかなり面白い。実は読前、激しい戦闘を繰り返す男前なまんがだとばかり思っていたのだが、これが意外にギャグ要素やヒューマンドラマが豊富で、我を忘れて没頭してしまう。
主要キャラクターの魅力ももちろん、よくもまあこんなに考えたなあと感心してしまうバラエティ豊かな敵、そして攻撃方法。1話読むごとに深まるストーリーの奥行き。非常に長い物語でありながら、読者を飽きさせない引きの強さ。
朝は新聞を読みつつ、なんとなく今日の仕事について考えをまとめたり一日の流れを確認したり・・・
多くの会社員の方がそんな通勤タイムをすごしておられると思うが、現在「ジョジョ」によってこの時間がまったく取れない。そればかりか、「通勤ジョジョ」によって脳内の「ジョジョ率」が圧倒的存在感をもって仕事に関する意識を猛烈に追いやってしまうのである。仕事場の最寄り駅に降り立ち、本を閉じても頭の中はDIO様のことでいっぱいのまま。
なので、仕事モードに切り替えるためにデスクに就いてヨッシャと気合を入れなおす必要がある。おそるべき魔力をもつまんがなのである。
知人から、「死ぬ前に読むべき名作」と紹介されてそいつは読まねばとレンタルしたのだが、なるほどそれだけの使命感をもって読む価値はあるかもしれない。
また、「ジョジョ」の類稀なおもしろさに触れることができたと同時に、今回の追い上げ一気読み対策として実施した「通勤ジョジョ」は、意外な気持ちよさをもたらした。
丸の内線で背広と日経新聞に囲まれて開くジャンプコミックスというのが、あじなものなのだ。後ろめたさや疎外感と同時に、ちょっとした優越感を感じてしまう。朝からまんがに興じるという、なんともいえないぜいたくさがあるからだろう。まんが雑誌ではなく、コミックスというところがみそだ。
機会があれば、ぜひ通勤電車でジャンプコミックスを。思わぬ快感を得られるのでお奨めしたい。そして、ぜひとも「ジョジョの奇妙な冒険」を一気読みしてください。
ストーリー・オブ・ドリーム [日記・雑記]
学校を卒業してからもう10年以上経つというのに、いまだに学校に関する悪夢を見る。
音楽の授業なのに楽譜や楽器を持ってきていない、
試験の前日になってまったく勉強していない科目があることに気づいた、
もう卒業なのに自分だけ進路が決まっていない、
たいてい、そういう「焦り」を感じさせる落ち着かない夢だ。
目覚めてからも「あれ、私、進学する学校決まってたっけ?」とドキドキすることしばし。いいかげん社会人生活も長いというのに、意識の底に「進学」があることが、われながらなんとなく気恥ずかしい。たいして勉強が好きでもなかったくせに、まだやる気があるのか?という感じだ。
自分の中のなにがこういう「取り残されている」「しなくてはならないことをしていない」という焦りを呼ぶのか、明確にはわからない。が、実は心当たりはある。
社会に出るまでの20年間は、常に次の目標を目指して夢中で走ってきた期間だったのに対し、今は「いかにして安定を得るか」という真逆の行動指針に変わっている。「次のステップを目指さなくてもいい」という状況に、心のほうがまだ慣れていないような気がするのだ。
いつも鼻先にあった届きそうで届かないにんじんが、突如なくなった。「食べてなくなった」わけではなく、消えてなくなってしまったというほうが正しい。満足している状態ではなく、目指すべきものを見失ってさまよっているイメージなのだ。
多くの大人が資格取得や習い事に燃える理由は、この心理にあるのだと思う。「何かに向かっている」限り、成長が促されると感じるからだろう。立ち止まることは衰退とイコールなのだ。
この「焦り」は、老いや衰えへの恐怖心が生んでいるのかもしれない。
日々忙しく、老いだ成長だとじっくり自分を省みる暇もない人は、それこそ成長の真っ只中にあって焦りを感じることのない人だ。過去の焦りを思い起こして「今の自分は何をしているのか」などとセンチメンタルになっている場合ではない。いま、現在どうすればいいのかでいっぱいいっぱいなのだ。それはそれで幸せなことだなと思うのである。
現実の焦りと夢の焦り。ないものねだりとはこのことだ。
別件だが、暇に任せてネットを漂っていたら、ウェブ上で小説を発表している人たちのサイトにたどり着いた。
職業柄、いわゆる「同人誌小説」をいくつか読んでいるが、これが侮れない筆力の持ち主が多くて驚かされる。一般的にはオタクと呼ばれて世間から一歩離れているように思われがちな彼らだが、自分の好きな世界だけに固執しているわけではなく、独自のオタク感性を他者を引き込むエンターテイメントとして昇華させることができる「一流のオタク」だったりするのだ。りっぱなものである。
そんな人たちのネット版であろうと思って読んでみた上記のサイトの小説、これがまた、すごかった。ものすごい下手さで、逆に読みこんでしまったのだ。
ファンタジーなのかミステリーなのか、あるいはその両方を目指しているか謎なのだが、つじつまの合わないことはすべて「ふしぎなことに」で片付けてしまっている。なかなかに豪腕。リアリティがなくてもストーリーに引きがあればわりと読めるものだけど、それも残念ながらいまひとつ、というか主人公の妄想っぽいモノローグだけが延々と続くありさまでストーリーにすらなってない。
それでも読まされてしまったのは、登場人物のせりふ回しがいちいち大時代で面白かったから。筆者はおそらく若い人だと思うのだが、なぜかセリフが20年前の少女漫画みたいな古くささでおかしい。さすがにそれだけで全編読もうという気にはならなかったが、いい暇つぶしになった。
その小説、どうも「自分の見た夢」をモチーフとして書き起こしたものらしい。時々、あまりにスペクタクルな夢をみてしまったときに、「下手な映画より面白かった」と思ってしまうことがあるが、無謀にもそれを文章にしようという試みだ。あ~やっちゃったね。
江戸川乱歩くらいの構成力と表現力があって初めて他者に伝わるのが「夢」の世界である。トライする価値はあるかもしれないが、もっとも難しいといってもいいのではないだろうか。とやかく言うのもアレなので控えるとして、ただただ「やっちゃったね~」な素人小説であった。
私が見た夢で唯一ストーリー化したいと思っているのが、「365分の一」だ。世界中が平和で、食べ物にあふれ、医療は高度に発達してめったに死亡することがなくなり、戦争もなく、みな幸福な暮らしをしているのだが、1年に一度だけ政府が派遣する殺戮軍団が町にやってくる。「口減らしの日」である。この日1日だけを生き延びれば、また364日幸せに暮らせるという、どこかで聞いたような話。
ふだんから「華氏451度」や「ドラゴンヘッド」を好んで読んでいるからこういう夢を見ちゃうんだろうけど、いや、面白い夢でした。
どちらかというと、これは映像化したい。だれかこの筋書きでメガホンをとってくれないだろうか。脚本は書くので、出資者を募集します。
「進学先が決まっていない夢」を映画化するとしたら、これも心理的に非常に怖いものになるんじゃないかと思う。こちらもあわせて出資者募集。









